トーマス・マン「ファウストゥス博士」より

 ここに、現代の経験から生じた大胆な考察を挿入して置く。悟性の光を愛する人は、『民衆』という言葉と概念には常にある古代的な、恐ろしい要素が含まれていて、人々を煽動して反動的な悪に誘おうとする時には、『民衆』という言葉で呼びかけさえすればよいのだ、ということを知っている。われわれの眼の前で、あるいはわれわれの眼の前でではないにせよ、『民衆』の名において行われなかったものがあるであろうか、神の名において、もしくは人類の名において、あるいは正義の名においてならば恐らく起こりえなかったであろうものが!ーーー実際は、民衆は常に民衆に止まっている、少なくとも彼らの本性のある層においては、すなわち、他ならぬ古代的な層においてはそうなのであるということ、そして、真鍮鋳物師小路に住む人々、その近くに住む人々が、選挙日には社会民主党に一票を投じながら、一方では、地上に住む金のない貧しい老婆に何か悪魔的なものを見て、彼女が近づくと、魔女の不吉な視線から護るために、子供たちに手を伸ばしたいということは事実なのである。再びこのような女が焚刑に処せられることになると(処刑の根拠を多少変更しさえすれば、今日ではこれはもはや決して考えられないことではない)、彼らは市庁当局が立てた矢来の回りに立って、口を開けて眺めるだろうが、これに抗議して反乱を起こすことは恐らくあるまい。ーーーわたしは民衆について語っている、しかし古い民衆的な層はわれわれすべての中にある、そして、考えていることを全部言ってしまえば、わたしはこの古い民衆的な層を確実に閉鎖して置くのに宗教が最適な手段であるとは思わないのである。わたしの考えでは、それに役立つのはただ文学、古典研究、自由で美しい人間という理想だけなのである。
トーマス・マンファウストゥス博士」、円子修平・訳、『トーマス・マン全集VI』新潮社、p.40-41)

  • ここに出てくる「真鍮鋳物師小路(ゲルプギーサー・ガング)」にある“穴蔵”には、「小さくて、白髪で、背が屈み、見るからに陰惨な感じがし、眼は涙漏眼で、鼻は鳥の嘴のように尖り、唇は薄く、しゅ木杖を脅すように振り上げ、時には猫かフクロウかものを言う鳥を持っている」ようなタイプの老婆が住んでいる。
  • この文章の直前には、「ある時代には、あるタイプの『老婆』はそれだけで魔女の嫌疑をかけられた、この嫌疑はもとはといえば彼女がよく絵にあるような意地の悪そうな様子をしているところから生まれたのだが、嫌疑をかけられるとその影響で、老婆の様子の方も次第に魔女らしくなって行き、ついには完全に民衆が空想する魔女の姿になったのである」とある。